第1章 きっかけ編 〜由美の場合〜



携帯の液晶を開く。時間は11時30分。

(また、残業か…)
由美は寂しげな表情を浮かべ、携帯をエプロンのポケットに仕舞う。
今日は5回目の結婚記念日だった。予約していたケーキは冷蔵庫の中で自分の役目が来るときを待っている。

「仕事、頑張ってるんだものね…」

つい口からこぼれた独り言が、静かな一人のリビングに響く。
去年の今頃からだった。
夫の俊介の帰りが遅くなってきたのは。
口に言葉を出し、自分の考えを肯定させる。
本当は少しだけ不安がある。

考えるたびにかき消す可能性

「俊介にかぎってそんなことあるわけないよ」

言葉に出し、再び自分を安堵させ、由美は編みかけのマフラーに手を伸ばした。
決して器用ではない由美だが、ひと編みひと編みに思いを込める。

俊介に良く合う若草色の毛糸だ。
優しく、穏やかな性格を表す若草色...。

元々不器用な由美だったが、手芸店でこの色を見たときにプレゼントしようと思った。
初めて買った毛糸。一緒に買った編み針と初心者用の本。
俊介に気づかれないように、こっそりと編み続けていたマフラーは1メートルほどの長さになっていた。

今夜はちっとも針が進まない。
いつもとなんら変わらないはずの、俊介がいない夜。

由美はため息とともに、不安を吐き出し、掻き消した。

「電話してみようか」

携帯をポケットから取り出して、電話帳を開く。俊介の番号を出して、じっと見つめる。

こんなときいつも思う。
帰ってきて欲しい気持ちは本心。でも、彼の重荷にはなりたくはない。
そう考え出してしまうと、通話ボタンが押せなくなってしまう。

けれど今日は電話してみよう。

由美は自分の中にいろいろな言い訳を吐き出しながら、通話ボタンを押した。

携帯を耳に当てたまま、呼び出し音を聞き続ける。
しかし、携帯越しに彼の声は聞こえてこない。

「おかしいな…出ない」

深夜、会社に残っている者は少ない。
そろそろ出てもいいはずなのに。
10数回目のコールの後、少し間を置いて俊介の声が聞こえてきた。

「……もしもし」
(もしかして、まだ仕事中だったのかな)

そんなことは無いと知りつつも、恐る恐る声を出す。
すると受話器からはいつもの俊介の声が聞こえてきた。

「もしもし?なにかあったの?」

少し心配したように聞こえる声。
その声を聴いた瞬間、由美の中にあった今までのごちゃごちゃした思いに自分自身で蓋をしてしまった。

「ううん。なんでもないの。ただ、どのくらい遅くなるのか気になって」

出来る限り明るい声を出して伝える。
自分の心の中にある汚いものに気づいてもらわないように。

「あぁごめんごめん。今仕事が終わったところなんだ。すぐに帰るよ。じゃあ切るね」
(あ…)

お疲れ様。気をつけて帰ってきてね。

咽喉まで出かかった言葉たちは、行き場をなくして、また由美の中へと戻っていく。
…もう、どのくらい溜まっただろうか。

早々に切られてしまった電話をエプロンのポケットに戻し、そのうち帰ってくるであろう俊介を思い、由美はキッチンへと向かった。
inserted by FC2 system