第1章 きっかけ編



日付が変わるか変わらないかの時間、仕事に区切りをつけた京子は、帰ろうかと思い立ち上がった。
そのとき、上司の俊介から呼び止められる。

「お疲れ様。どう、このあと夜食代わりに何か食べないか。」

俊介は少し疲れたような顔をしつつも、仕事が終わった充実感からか、笑顔を浮かべ京子を見ていた。
俊介のその笑顔を見るたびに、京子の胸は締め付けられた。
京子はもう隠せずにいた・・・。
そう、この胸の高鳴りの理由を。

「ありがとうございます。でも、今日は遠慮しておきます。もうお時間も遅いですし。」

胸の内を悟られないように言葉を選びながら、京子も笑顔で返事を返した。
そう言い京子は帰ろうと手早く準備を始めた。
高鳴る胸に落ち着きを取り戻そうと深呼吸しながら。
そのせいかすぐ後ろに俊介が立っていることには気付かず。

「京子さん…髪伸びたね」

そういうと俊介は京子の長く艶のある髪に優しく触れた。
俊介の息が髪を伝う。
その時、京子の中で何かが弾けた。

「か、課長!あたし…」

そういい、俊介の方を向き直し、俊介の顔を真正面から見つめた時。
プルルル、プルルル、プルルル…
俊介の胸ポケットにある携帯が鳴った。
奥さんだ。京子は直感的に層感じた。
俊介の夫婦は社内でも有名なおしどり夫婦だった。
携帯の音は静かなオフィスに響き渡った。京子はすっと俊介の傍を離れる。
頭ではわかっていた。京子は涙が零れるのをぐっと我慢して精一杯の笑顔を浮かべ

「課長!奥さんですか〜?妬けますね!」

何事もなかったように俊介に接した。

「いけない!もうこんな時間、お疲れ様でした!」

京子は俊介への想いを振り切る様に六本木の街を走り去った。


マンションの前に着くと、京子はふと空を仰ぎ見た。空には雲はなく、月と星が美しく輝いていた。
気持ちを伝えられなかった後悔と安堵が、彼女の中で何度も交差していた。

「…馬鹿みたい」

彼女は溜息をつくと、マンションの入り口の扉をくぐった。
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